[ 楽土捨ツ ]
病気療養中のボンゴレ十代目の見舞いに行く、と言って
リボーンが本部を出たのは三十分ほど前だった。
途中見つけた花屋で、適当に花束を見繕ってもらうと
彼は海岸通りをポルシェで駆け抜けた。
入り江の向かいには、ボンゴレが裏で経営する
会員制のリゾートホテルが悠々とそびえたっていた。
その最上階の奥、一般客には公開されていない
ロイヤルスウィートが、ツナが療養するために用意された部屋だった。
リボーンは花束を肩に乗せて持ち上げると、ロココ調の玄関を抜け
最上階専用のエレベーターに乗った。
毎週金曜日の午後、十代目を見舞うのは彼の習慣と
言ってもよかった。
「ああ・・今日は薔薇なんだね」
エレベーターのドアが開いた途端、足早にリボーンに近づいたツナは
笑顔で彼から花束を受け取った。
別に気をつかわなくてもいいのに、と芳香を嗅ぎながらツナが言うと
「見舞いに来てるんだ。手土産のひとつも必要だろう」
ネクタイの結び目を緩めながら、彼は答えた。
巷では、ボンゴレ十代目は銃撃戦で負傷して寝たきり状態。
現場復帰は絶望的、という噂が流れ、マフィア業界全体が混沌としていた。
が、当のツナは血色も良く、何より歩いてリボーンを迎えていた。
「ばれたら・・困るもんね」
ツナが小さく呟くと、リボーンはふん、と息を吐いた。
ボンゴレ十代目を襲った銃撃も、彼の現在の容態もすべて
リボーンが敵と味方両方を欺くためについた嘘、だった。
知り合いの医者に虚偽の診断書を書かせ、リボーンは
誰にも知られないよう、ツナを自分の息の掛かったホテルに運んだ。
その後彼以外の面会は謝絶され、本部さえ
ボスの本当の居場所を知らなかった。
事実ボンゴレの方針は、幹部構成員が会議で決定していた。
また武器や麻薬の取引、他のマフィアとの駆け引きは、
幹部選りすぐりのブレーンが対応していたため
ツナの仕事は類に判を押すことだけだった。
ボスが不在でもボンゴレの運営には支障はなく
リボーンは見舞いがてら重要書類に判をもらうという役割を担っていた。
「でもちょっと寂しいな。金曜日しかリボーンに会えないから・・」
ツナは眼を細めて笑って、花を束ねていた包装紙を解いた。
その瞬間リボーンに後ろから抱きしめられ
芳香と共に真紅の花弁が大理石の床に散った。
「後悔しているのか?」
「なんでそんなこと聞くの?」
ツナをベッドに横たえると、リボーンは彼の上に上体を乗せ
正面を見据えながら尋ねた。切れ長の深い闇のような瞳に浮かんだのは
僅かな――苦悩だった。
ツナは自分を見つめる男に、微笑みながら聞き返した。
同じ地獄に堕ちているならまだしも、嘘をついているのは
自分だけで、彼は十分引き返せる場所にいた。
「これは君が・・持ちかけたことでしょう?」
宥めるようなツナの言葉に、リボーンは一瞬面食らった
表情を見せた。僅かに眉を曇らせ、苦悶を目じりに滲ませると
彼はツナから視線を逸らした。
眼を合わせていればこちらが、心を読まれそうだった。
ボンゴレ10代目の暗殺依頼が闇ブローカーに持ち込まれたのは
先月の末だった。裏の動きをいち早く察知したリボーンは、直ぐにその
依頼人を捜し当てた。
依頼主は――ボンゴレの最高幹部の一人だった。
この事実は彼とボンゴレ全体に衝撃を与えた。ボンゴレでも
古参の男の反旗は、ファミリーの内部分裂を示唆するものだった。
血筋の継承を望んだ9代目と、ボンゴレを古くて新しいマフィアに
作り変えようとする一部の幹部は、しばしば衝突していた。
火種は、ボンゴレ10代目が誕生する以前よりあったのだ。
正直、リボーンは悩んだ。このまま依頼主を暗殺して依頼自体を
無に帰せば・・ボンゴレが崩壊する。かといってツナを殺させる
わけにもいかない。
彼の導き出した解決策は、もっともな理由をつけて
ツナを表舞台から下ろすことだった。9代目の遺言と
ボンゴレの将来を守るためはリボーンは苦渋の決断を
下した。
それが、10代目の虚偽の負傷と・・彼の軟禁だった。
「俺がいらないなら殺せばいいよ。そんなの君なら
簡単でしょ?」
平然と言い放つツナは、日中屋内にいるためか全く
日焼けをしていなかった。
真っ白な肌と、その上のシャツがなぞる華奢な体のライン。
薄紅色の頬、わずかに血色を帯びた唇、なだらかな額、栗色の
くせっ毛――そして、子供のように小さな手のひら。
あまりにも、幼くて儚いその容姿はさながら天使のようにも
見えた。ただいくぶん栄養不良気味だったが。
――そんなこと、できるわけない。
リボーンは彼の身体を舐めるように見つめながら僅かに
頸を振った。動揺していることを悟られたくはなかったが
死を隣に据えた男の凄みは、美しいとさえ感じられた。
いつから、立場が逆転してしまったのだろう。
ファミリーのため、とボスとそそのかし
鍵の無い部屋に連れて閉じ込めたのは、自分だったのに。
リボーンは激しく揺れる思考を沈めるかのように
瞳を閉じた。よもや自分がファミリーとボスの間で
板ばさみになる日がくるとは思わなかった。
いつまでこの嘘がつき通せるのか分からない。
やがて復帰しない十代目に、幹部会が見切りを
つけるとも限らない。
後任は、そのときツナはどうなるのか。
未来は、真っ黒な陰謀をかきたてて渦中の
二人を飲み込むだろう。裏切り者の末路は
――・・
波に飲まれる瞬間、小さな声が彼を現実に引き戻した。
「・・だったらもう何も考えないで。そばにいるときくらい
俺のことだけ、考えてよ」
シーツの上の天使は泣いているようだった。
リボーンは掴んでいたツナの両手を離すと、両腕を
彼の腰に回してゆっくりと抱きしめた。冷えた細い身体を
温めれば、切なさに何もかも流される気がした。
虚構の楽園には、罪を負った悪魔と穢れを知らない
天使が住んでいる。
二人を乗せた箱舟の行く先は、神でさえも知らなかった。