[ 残り香 ]
血の匂いに敏感なのは職業柄。ただし今度は獲物が死ぬ前に
駆けつけなければならない。上納するのは死体ではなく命なのだから。
その血の塊はむくりと起き上がると、獣の口を開いた。中から緋に染まった
牙が覗く。肉食獣のそれだ。あきらかに何かを食い散らした後だった。
生きていてごめんね、とその獣は言った。起き上がったときは人間の姿を
取り戻していた。血の海で丸くなっていたときはどす黒い豹の姿だったのだ。
瞬時の変化に、常軌などすでに逸していた男も目を丸くした。
「これ・・僕の血じゃないから」
男は黒い衣装の袖をまくった。獣であったときはむせるほど浴びた血も
人間になれば洗い落とされてしまう。そのために変化する。他意はない。
リボーンは眉をしかめた。人間の匂いがしない。さらに言えば何の気配も
――ない。生きていたときはあれだけ人の気配に敏感だったのだ。勘が鈍ったかと
推測したがそれも違う。彼は人間ではない。この気配の絶ち方は――まさしく
野生の猛獣のそれだった。
「・・君も、人間じゃないね」
雲雀恭弥は微動だにしない黒服の男を一瞥してそういった。片方は学ラン、片方は
漆黒のスーツ。二人の生業は異なるが、手段は同じだ。ある目的のために人を殺して
いる。
分かるのか、とリボーンは声を落として尋ねた。油断は出来ない。
鼻は利くほうだからね、と雲雀は答える。こちらはむしろ嬉しそうだ。珍しそうに彼の
右手の短銃を眺めている。
「よく上の許可が下りたね。無駄に死体をうろつかせたくないはずなのに」
上、とは天界をさす。二人にとって頭の上にあるのは空ではなく天上の世界であり
下に踏みしめているのは土ではなく地界――俗に言う地獄だった。ちなみに天上も地界も
エレベーターで簡単に行き来できるようになっている。
死体、と呼ばれてリボーンは眉を動かした。一瞥しただけで見抜かれるとは思って
いなかったのだ。生身の人間には見えない姿だが、その見た目は今生の人間と寸分
互いない。そういわれて手にした体だったが、幽霊の目は騙せても獣の鼻は誤魔化せ
ないらしい。
ああ、それとも、と雲雀は付け足した。
「上にコネでもあるの?上級の天使あたりに」
そうだ、とリボーンは答える。余分なことは言わない方がいい、と
脳が警鐘を鳴らす。目の前の男が、敵か味方かも分からない。
先に死んだ元教え子の口添えで、現世に留まる身体を得た。不法滞在は
罪業の上乗せになるので駐在許可には理由か、役目がいる。天界に会いたくない
奴がいる、では理由にならないので職業を選んだ。人間の魂専門のハンター。
天界の役人さえ手を焼くような連中の魂を上納する。規定数を下回れば
即強制退去だ。元ヒットマンであることを考えれば人間の狩りなど容易いが
相手も百戦錬磨のハンターだ、所在を掴むのだけも一苦労する。
おびただしい血の匂いに駆けつけたのはそれでだが、すでに雲雀に
喰い散らかされた後だったらしい。
「もしかして・・例の金髪の天使?」
あの、三ヶ月で東方支部の十代目になったっていう伝説の、と雲雀は
続けた。リボーンの瞳が曇る。図星らしい、と彼は思ったがそれ以上は
口をつぐんだ。余計なことを言うと右手の銃が火を吹きそうだ。
数々の有名なボスを輩出した伝説のヒットマンが死んだ、というニュースを
先日耳にしたが、まさか彼がその張本人で、さらに天界にはいかず現世で
ハンターまがいのことをやっているとは意外だった。
「じゃあ君が噂の――」
その名前を呼ぼうとした瞬間、彼の右手がわずかに動き弾丸が雲雀の頬を
掠めた。銀に魔力を内蔵した特殊な弾丸は、獣の肌さえ貫く。男はそれきり
踵を返した。獣に背を向けて去るなんて、と雲雀は笑った。自分に興味が
ないのか、ただ脳が足らないだけか。
雲雀は頬に滴る血を拭うと、珍しいね、と言った。
「僕を狩らないの?」
そんじょそこらの屑よりよっぽど、価値がつくけど?
「・・動物に興味はない」
雲雀は手の甲に付いた血を舐めて微笑んだ。自分の肌に傷をつけたのは
彼が初めてだった。右手の動きを全く読めなかった時点で彼が本気なら自分は
殺されていただろう、と雲雀は思った。弾丸の威力は持ち主の力に左右される。
これほどまでの威力を発する銀の銃弾を、見たことも聞いたこともなかった。
命拾いをした、と気づいた瞬間雲雀は珍しくこの元人間に興味を持った。
何か理由があって現世にいるのだろう。彼なら天界でも上級待遇を受けられる
のに、と雲雀は思った。わざわざ幽霊の体まで得、割りに合わない仕事をしてまで
会いたくない誰か――が、天界にいる。育てたボスのひとりかな、と雲雀は
想像を進めて笑った。さっさと往生すればいいのに、超一流のくせに引き際の
見苦しい男だ――本当に人間らしい。
「・・いいことを教えてあげようか?」
雲雀の言葉に殺し屋は振り返った。殺気が消えないのは職業柄だろう。
「もう少し東の島国にね。世にも珍しい灰色の狼がいるんだよ」
世界中のハンターが狙っているんだ、君のいい上納品になるかも、と
雲雀は付け加えた。リボーンはいぶかしそうに彼を眺めた。魔物の情報を
流したところで何の見返りも得られない。
あえて己を撒き餌にして狩りを楽しむ自分よりは、自分の価値も知らず
ただ逃げているような例の狼の方が餌には最適だろう――と雲雀は思った。
狩りにはまだ慣れていないヒットマンにはいい標的になる。
「僕もひさしぶりに彼に会いに行こうと思うんだけど、一緒にどう?」
雲雀の思わぬ提案に、リボーンは身体を向けなおした。この野獣の意図が
分からない。
別に深い意味は無いんだよ、と彼は続ける。両腕を組んで微笑んだまま。
情報提供はただの気まぐれと、予感から。彼といると面白いものが見れそうな
――そんな、獣の予感。
リボーンは考えた後頷いた。手を組んだところで害はない。殺そうと思えば
消せる。それに――獲物の方が狩猟者には詳しい。彼の話が本当なら、その
狼に近づけばこの先しばらく此処に居られるだけの人間の命が得られるかも
しれない。
彼が自分に向かって歩き出したので、雲雀は微笑んで行き先を歩き出した。
念じれば空だって飛べるが、やはり旅は徒歩に限る。この先の港の船のどれかに
「日本行き」があるだろう。適当に客を殺して、成りすませばいい。
そういえば、と雲雀は思った。何の匂いもない男だと思ったが――わずかに
島国の香がする。彼の血の匂いでない・・とすれば、「天上で会いたくないひと」
の残り香かな、と雲雀は思った。
古今東西会いたくない相手は恨みのある人物か恋人だったが、おそらく後者では
ないかと雲雀は踏んだ。後をついてくる男の右手にはあいかわらず鉄の塊が光って
いた。