[ 残り火 ]
調子はどうだ?と医者に聞かれてツナはシャツの前の
ボタンを留めながらまぁまぁだよ、と答えた。
あいかわらず隙のない背中を自分に向けるのは例の
家庭教師の教育の賜物なのだろうと彼は思う。
手を伸ばせばすぐにだって抱きしめられる距離で
裸になっても、自分はただ黙々と素肌に聴診器を当てるだけなのだ。
抱きしめたい、と思わないと言えば嘘になるが
そうしないのには彼なりに理由があった。
診察を目的にこの部屋をノックした患者は抱かない
――それが彼の医師としてのポリシーだった。
「俺の診たてでは健康体だ、まぁ胸張って帰りな」
シャマルが胸ポケットから煙草を一本取り出して
ライターで火をつけると、いつの間にか振り向いていた
ツナが横から一本それをくすねて微笑んだ。
「ドクター・・ここは禁煙?」
悪戯好きな眼に見上げられ、シャマルは禁煙週間と大きく
書かれたポスターを見ながら「俺が吸う時なら許可してる」と
言った。患者に禁煙を勧める自分がヘビースモーカーでは
正直説得力に乏しい。
灰色の煙をほうと吐いてからシャマルは、ツナの口元の
煙草に火をつけながらこう言った。
「その代わり、ひとつ願いを聞いてもらうがな」
「何を叶えてほしいの?」
一度煙草を吸ったツナが、煙を吐きながら続けると
シャマルはそっと――その先程隅々まで調べた身体を
抱き寄せた。
「・・分かんだろ」
「分かりません」
鮮やかな切り返しもそのままに、シャマルは彼をもう一度
ベッドに横たえた。診察とは明らかに別の理由でだった。
「・・分からせてやろうか?」
ネクタイの結び目に人差し指を入れながらシャマルがそう言うと
煙草を取り上げられたツナが、男の腕の下で微笑んだ。柔らかく
全てを許すような笑みだった。
「ドクターは、嘘が・・上手」
突きつけられた言葉に、男の手は止まった。ツナは、脱がされた
シャツを羽織ったまま、白衣の先のいつも趣味の悪い柄のネクタイを
引いた。
「――ここで、やめないでね」
それは懇願よりは命令に、釘を刺すよりは脅しに近かった。
続ける言葉をなくした医者が、吸い寄せられるように唇を重ねると
弱弱しい力が粘膜を、重ね合わせてきた。何度抱かれたか分からない
身体なのに、始めるときはいつも処女みたいだ――と、シャマルは
苦笑した。あれほど隠した診断結果を、こんなにも早く見抜かれるとは
思わなかった。
「・・俺、どうなっちゃうのかな」
睦言を交わした後のベッドで、うつぶせのままツナはぽつりと
言った。先月見たときよりはずっと、その身体は痩せていて
熟した果実のようだった肌も乾いて、浮いたあばら骨がその
身に起きた痛々しさを強調していた。――誰が見ても、彼は
明らかに衰弱していた。
「なんてことねーよ。とりあえず食え、それから寝ろ」
ネクタイを締めなおしながら医者は簡潔に告げた。
嘘をついた理由はただひとつ――事実を信じたくないから
だった。
「――もうすぐ死んじゃうから抱いたの?」
消え入りそうな声が囁いて、シャマルは手に取った白衣を
落としそうになった。自分の診たてが正しければ――残り火の
少ない命が泣いている。そして、彼より早くこの部屋に来た
男と交わした約束が医者の胸を雁字搦めにした。
『他言は無用だ・・たとえ相手がボスでも』
『――それは、お前の望みか?』
『ああ、身勝手な最後の我儘だよ』
差し出された煙草を受け取って、シャマルは無言で頷いた。
出生から知っている元家庭教師のヒットマンは『世話になる』と
言った。後のことはすべてお前に任せるという意味だった。
言えないのは、約束したからだけではない、伝えたくないからだ。
医者にも言霊があって、悪い結果は人間をより不健康にする。
その逆も然りだ――告知をしないことで少しでも、生きることを前向き
に考える時間を延ばしてやりたかった。
――たとえそれが自分のエゴでも。
煙草一本分の願いは、届かない願いを身体に残すこと。
煙草一箱の約束は、どんなことがあっても、彼のそばにいること。
「ばーか・・いくらなんでも死にかけの患者は抱かねーよ」
白衣に袖を通しながら医者が言うと
「・・リボーンはもう、俺に触れないよ」
震える背中が小さくなって、シャマルは思わず――その傷ついた
柔肌に手を触れそうになった。抱きしめて何もかも、忘れさせてやり
たくなった。何も知らされないまま命を終えるこころを――せめて
自分で、誤魔化してやりたかったのに。
――お前に出来ないことを、俺に任せるなよ・・
脳裏に浮かんだ黒髪の男にうそぶいて、シャマルは
かき乱した栗色の髪を優しくすいた。駄々をこねる
子供をなだめるように。
抱き起こしたらきっと泣いているような気がして、男は
彼が瞳を閉じて寝付くまでただ――髪を撫で続けた。
時間の止まったような部屋でただ刻々と
彼のタイムリミットだけが近づいていた。