踏み込んでしまうと戻れない。
[ mistake ]
所用をすませて本部に戻り、執務室のドアを
開けると、革張りの椅子に白衣の男が仏長面で
腰掛けていた。両腕を頭の後ろに置き、口を
への字に曲げた胡散くさい闇医者は、ご機嫌斜めと
いわんばかりに重厚な執務机に足を投げ出していた。
リボーンが見たら、入り口から銃で撃ち殺され
そうな光景だった。
「来てたんだ・・」
ツナは睫を伏せると、こともなげに
呟いた。回診は五時と聞いていたから、彼は
本部に来てからずっと部屋でツナを待っていた
ことになる。
時計の針は五時十分を過ぎていた。
「何してたんだ?」
彼にしては珍しく、刺すような低い声だった。
多忙なツナが回診に遅れるのはよくあることだが
彼は別の理由で怒っているようにも見えた。
「ちょっと会議で・・遅くなって」
ごめんね、と机の書類を片付けながらツナが
言うと、シャマルはその細い右腕を鷲掴みにして
答えた。
「嘘付け」
射るような言葉に、ツナは右手の動きを止め
眉間に皺を寄せた男に向き直った。
こんなに不機嫌な彼の声を聞くのは
初めてだった。
シャマルは、掴んだツナの右手の袖をゆっくりと
捲くった。白い二の腕の内側にくっきりと浮かんでいたのは
何かが噛み付いたような――生々しい傷跡だった。
「俺に会う前に逢引か、随分・・図太くなったもんだな」
腕の立つ医者でもある彼に、体の気だるさと逢瀬の
余韻を隠しきれるはずもなかった。ツナは、一瞬顔色を
変えて右袖を戻したものの・・直ぐに瞳の色を冷えた
薄茶色に戻した。
「別に。ドクターだって同じものでしょう」
見破られたことに動じるばかりか、むしろ開き直ったような
投げやりな口調だった。ツナは右腕のボタンを左手で締めると
重ねた書類を両手で持ち上げてトントンと机に叩き、角を
整える。
「――何だと?」
事務的に自分とやりとりをするツナに、シャマルは
苛立ちと疑問を感じて立ち上がった。かねてから素っ気無い
人物ではあったが、無愛想というよりは何かに腹を立てて
いるように見えた。ただそれが何に対してなのかが皆目
分からない。
ツナは整えた書類を机に置くと、幾分かの責めと憤りを
含んだ眼でシャマルを見つめて答えた。不貞を怒る筋合いは
ない――と言わんばかりに。
「俺のこと・・女の人の代わりで抱いてるくせに」
睨み付けた飴色の瞳に、じんわりと滲むものがある。
それは、涙か――哀しみ、か。
思いもかけないツナの言葉に、シャマルは「何だって」と
大声を上げた。そんなつもりは微塵も無いのに、何故そう
勘違いするに至ったか――出会ってからの日々を振り返っても
思い当たることが、ひとつもない。
いったい今日はどうしたんだ、とシャマルは両手を
仰ぐように天井に向けて上げた。
「何怒ってるんだお前――」
「今日は、白衣からレモンの香りがするね」
この前はピーチで、その前はイチゴだったよね。
呟くようなツナの言葉に、彼の両腕は凍り付いたように
空中で停止した。診ている患者の香水が付くのは医者と
して致し方ないことだったが、彼の回診は味見の要素も
含まれていた。
「それは――医者としてだな」
あくまでも、患者との身体的接触によるものであり
ツナが邪推するようなことはない、とシャマルが弁明
しようとしたときだった。
「俺を抱きながら、女の人の名前呼んで――寝てたよ」
ツナの語尾は既に湿っていた。詫びても余りあるような
自分の非に――シャマルは声もでない。
浮気は男の甲斐性、と自負していたシャマルだったが
この無垢な少年には何を言っても退けられるだろう。
彼を、誰よりも一番大切に、診てきたことは確かだった。
今まで愛してきた両の指でも数え切れない数の
お嬢さんを同じように診てきたことも、事実だった。
医者として、最後まで責任をもって経過を見届けたい
そんな自負も彼にはあったのだ。
どんな言葉を並べても拭いきれない自分の失態に
シャマルは生まれて初めて「後悔」した。
会う度どんなに彼に辛い思いをさせてきたのか
――そう考えると胸が痛んだ。
こんなに純粋に自分のことだけを、思っている
存在は――おそらく彼だけだった。
だからこそ一度失った信用を取り戻すことが
困難なのは、火を見るより明らかだったのだ。
愛している、とベッドで囁くのは簡単なのに
それを信じるのはどんなに切ないことだろう。
自分の浮気を笑って許してくれるような天使なら
ここまで溺れることも・・なかったのだ。
眼に入れても痛くないほど抱きしめてきたのに
今日はほんの数センチの距離が果てしなく遠く
感じられ、シャマルは両腕を下ろした。
束ねた書類に涙の海をにじませる最愛の患者を
彼は呆然と見つめていた。先ほどツナの腕に跡をつけた
人物より強く・・彼を抱きしめてやりたかった。