『 風花 』
ろうそくにマッチで火をつけると、その明かりで周りが
ほのかに照らされて明るくなった。
「・・クリスマスってキリストの誕生日だっけ?」
深緑色のセーターを着た山本が、二つ並んだいちごの
ショートケーキを見ながら苦笑する。
「そうだったよね・・確か」
クリスマスとお正月がいっぺんにやってくる日本では、
その意味を深く考えたことが無くて、俺は適当に相槌を打った。
「男二人でクリスマスもねーよなぁ」
マッチの火を消した山本が俺の隣であぐらをかくと
俺はそんなことないよ、と言った。毎年特に予定もない日だ。
「・・山本こそよかったの?」
野球部のエースでクラス委員も兼ねている彼はすごくもてる。
クリスマスなんてきっと、予約がいっぱいなんだと、俺は勝手に思ってた。
「俺も別に、毎年暇だし」
「・・え?」
振り向いた瞬間、真剣な眼差しの彼と眼が合って、心臓が
どくんと跳ね上がった。沈黙が広がる彼の部屋の窓には
昼から降り出した粉雪が積もっていた。
大切な話があるんだ、といわれたのは、終業式を終えたばかりの
がやがやと賑やかな教室でだった。
――今日、俺んち来てくれないか?
珍しく切羽詰った表情だったように思う。
いつものらりくらりと笑う彼にしては。
俺が頷くとほっとした彼は相好を崩した。
それから、荷物を自室に置いて俺は山本の家に向かった。
降り出したばかりの白い結晶を踏みしめながら。
オレンジ色の炎が、赤と白のマーブルが綺麗なキャンドルの
上でゆらゆら揺れている。
俺は山本とケーキを交互に見て尋ねた。
「・・それで、話って何?」
壁かけの時計は午後六時を指していた。
彼の部屋で宿題とゲームをして、夕ご飯をご馳走になるのは
いつものことだった。「お得意さんからもらったから」と
彼がショートケーキを二つ持ってくるまでは、
今日がクリスマスイブということを俺はすっかり失念していた。
山本は一度視線をずらして息を吐いた――とても言いにくそうな
仕草に俺は・・先日聞いた思いがけないことをふいに思い出した。
それを表情には出さないように心がけながら。
「・・県の代表選抜に選ばれたんだ」
一呼吸置いて彼は言った。ろうそくの火は燃え続けている。
俺と彼の残された時間もゆっくりと進み続けている。
窓の枠に、積もる細かい粒子の雪も降り続けている――音もなく、静かに。
この地区では野球成績の優秀な生徒から県の代表として何名か
特別選抜を選ぶ決まりがあった。選ばれた生徒は全国大会に向けて
別メニューで練習することを許される――いわば野球エリートとしての
登竜門だった。
選抜に選ばれたメンバーから甲子園へ行くものやプロ入りする
選手もいて、代表に指名されることは球児にとって垂涎の的だった。
「凄い・・よかったね、山本・・!」
うちの学校でははじめての名誉なのではないか。
俺は両手を握り締めて喜んだ。彼の力が認められたこと
そして彼に新たな活躍の場が与えられたことがとても、嬉しかった。
「なかなか選ばれないんでしょ?応援するよ!練習は大変だと思うけど」
「――ツナ、俺さ」
興奮した俺の言葉を山本は遮った。真剣な面持ちだった。
「俺、転校するんだ」
「え・・」
山本の言葉に、俺の表情も固まった。
「県外の合宿も多いし、ここから通うのは大変だからって。
選抜になるなら、そのコーチがいる学校に転校した方が
一番だって――だから」
来年都内の中学に移るんだ。
答える山本の表情は暗い。こんな喜ばしいことはないのに
彼はどうして、こんなにも――悲しそうなのだろう。
「・・山本は、何て?」
答えたの、と尋ねると彼は視線を下ろしながら言った。
思いつめた色の眼を閉じて。
「考えさせてくれって」
「どうして・・」
こんなチャンスないじゃない、あんなに好きだった野球
好きなだけできるよ、山本もっと強い相手とやりたいって前
言ってたじゃん――そのとき俺はかなり適当なことを言った。
夢の実現に向かって進む彼の、背中を押したかった。
自分にはそれがいずれ出来なくなるから。
眼を開けた彼は、もう一度俺を見た。酷く苦しそうな眼だった。
俺は先ほど並べた台詞を後悔した。
安易な励ましが彼を傷つけたのだと、思った。
「・・俺、ツナのことが好きだ」
「・・・」
告白に心臓の音と、息が止まった。時間も一瞬だけ止まった。
彼の告げた言葉が意味するものが、俺には分からなかった。
無言で彼をまじまじと見上げた俺に、彼はすぐ申し訳なさそうな顔をした。
「・・ごめんな、急に変なこと言い出して・・ツナが迷惑だったら――」
「迷惑じゃないよ」
その言葉は存外するりと出た。驚いた彼は振り仰いで俺を見た。
瞳孔を広げた意外そうな眼差しで。
「・・俺も、山本のこと好きだったよ」
見つめた先の黒い瞳に滲んだのは喜びだったか、驚きだったか
俺にはわからないけれど。言葉を失った山本はただ俺を見つめた。
口をつぐんで、眉をきりりと揃えて。
でもね、と俺は続けた。ここからが本題だった。
「山本は・・代表になった方がいいと思う」
「ツナ・・」
それは俺の勝手な望みだけれど。
「・・俺野球頑張ってる山本がずっと好きだったから。
もっと、山本に頑張って欲しい・・ずっと山本を応援して
いたいんだ」
だから――お願い、迷わないで。
「俺こそ・・勝手なこと言ってごめんね」
山本は答えない。
俺と机の上を交互に見てから、頭をぽりぽりとかいた。
その横顔がふっと朱に染まったのは数秒後。
俺がオレンジジュースを飲み干してからだった。
「・・ツナと、一緒にいたいんだ・・」
吐き出すような言葉に、全身を切り裂かれそうになった。
流れ込んでくるのは、惜別の悲しみ。
あふれ出てくるのは、表に出さないと誓った一筋の思い。
山本、と言おうとした瞬間だった。彼の腕がするりと伸びて
――そっと俺を引き寄せた。
抱きしめられて初めて彼が泣いていることに気づいた。
こんなにも、彼のことが好きだったことにも。
言ってくれ、と山本はいった。祈るように。許しを請うように。
「・・行くなって、いってくれよ・・!」
しばらく俺は彼の腕の中にいた。彼の願いを叶えることは
できなかった。俺は何より、彼の夢を叶えてやりたい。
俺は誰よりも、彼が野球を一番好きなことを知ってる。
だから。その言葉だけは声にすることができない。
山本の夢を邪魔する権利は――誰にもないんだ。
運命を変えることはできない。
「ごめんね・・」
俺が言うと彼はそっと腕を離した。体が離れたとたん心臓が
締め付けられるくらい痛んだ。
この体は彼の腕の中にいることを望んでいる――思考の先に
眩暈がして俺は、必死に押しとどめた。
涙より先に零れてしまいそうな、真実を。
山本は両目をこすって、悪い‥と言った。何の落ち度もないのにだ。
「女々しくってごめんな」
そんなことないよ、と俺は頸を振った。
とりあえず、ケーキ食う?そう言われて俺は
イチゴにフォークを突き刺した。
甘ったるさが、肝心なことをいえない喉に
蓋をするように下りて行った。
もう遅いから送ってく、と玄関先で言われて俺は頸を振った。
「・・たまにはこっち帰ってくるからよ」
「うん・・」
そう言いながら俺は頷いた。
大切なことを伝えるためだけにノックした玄関が、閉まろうとしている。
「・・ツナ?」
一向に動かない俺を山本が覗き込んだ。
止むことなく降り続けた雪がうっすらと
アスファルトに白い化粧を施している。
「――明日、イタリアに行くんだ」
俺の言葉に山本の表情が凍った。・・そこから何をどこから
話したのか、俺もあまり覚えていない。
十二月の初め、九代目が亡くなったこと
それから偉い方の会議で俺が勝手に、後継者に選ばれたこと。
その決定はどんなに拒んでも覆すことはできないこと。
終業式を終えたら次の日のミラノ行きでイタリア入りするよう
すべての手配が整っていたこと――俺はそれを昨日の夜聞いた。
『あの野球小僧はどうするんだ?』
『どうするって・・』
リボーンは言った。すべてを話すなら今だ、と。
――もしも彼を連れて行きたいのなら。
そんなとんでもない、と俺は答えた。
山本をそんな危険なところに連れて行くつもりも
俺とその周囲のごたごたに巻き込むつもりもなかった。
彼には家族と学校と野球がある。そのすべてを犠牲にしてまで
彼を命がけの世界に引き込む権限は誰にもないのだ。
『山本は無理だよ・・だって』
俺は知っていた。彼が選ばれたことを。
補習で立ち寄った職員室で教頭先生の話を聞いたのだ。
わが校の誇り、と先生達はほくほくした顔で話していた。
彼に期待してるのは、俺だけじゃない。彼の足を引っ張る
権利は俺にだって・・ないのだ。
すべて話し終えてから俺は泣いた。伝えれば崩れてしまうことは
分かっていた、だから――今日彼に会わなければ
永久に伝えるつもりはなかった。
「一緒にいられなくて・・ごめん」
何か言いかけた山本は、上げた手をポケットに下ろした。
触れようと思えば目の前にいて、ほんのわずか手を伸ばせば
その手を広げたなら抱きつけるその距離にいて。
その十センチが絶望的に届かない。
俺が背中を向けて歩き出した時だった。
ふいに右腕を掴まれて俺は振り返った。
息を白くした彼が涙の滲んだ眼で俺を・・見つめている。
「・・何でもっと早く、言ってくれなかったんだよ・・」
――好きだから・・言えなかったんだよ。
問う声が震えて俺は、彼が怒ってるんだと思った。
大切なことに蓋をして、彼を置いていこうとする俺を。
「――ツナは、ほんとに行きたいのか?」
イタリア、と聞かれて俺は思わず頸を振った。
答えてはならない質問だった。
本当は行きたくない、離れたくない――けれど。
山本の枷にはなりたくないんだ。
せっかく仲良くなれたのに、この関係を壊したくなかった。
友達のままのいい思い出を残したかった。
告白して気まずくなるくらいならはじめから
なかったことにすればいい。この思いは届かなくて構わない。
「・・だって山本・・俺を置いていくから・・」
選抜に選ばれたと聞いたとき俺は、嬉しい反面もう一緒に
いられないんだと悟った。臆病な俺は彼を忘れることを選んだ。
彼の夢を後押しして自分は彼の記憶から消されるつもりだった。
叶わない願いを、日本に残して。
――イタリアに行けば・・山本のことを忘れられるから。
結局俺は自分が一番、傷つきたくなかっただけだ。
「――置いていくわけ・・」
そう彼が言いかけた途端何かが唇に当たって、言葉が遮られた。
柔らかくて温かくてそれが――キスなんだ、と唇が離れてから気づいた。
一瞬の交差だった。
俺を見つめる山本は怒った表情で、泣いていた。
「どうして俺を――」
呼んでくれなかったんだ、と腫れあがった眼が問いかける。
勇気ひとつ出せない臆病者に。俺は最後まで相手の気持ちを
無視した願いさえ吐き出せない。
そばにいて、一緒にいてよ、とその腕に縋れれば
どんなに――幸せだったか。
「・・野球やってる山本が・・一番好きだったんだよ」
それだけは、嘘じゃない。
海の向こうで応援してる・・届かないかも、知れないけれど。
何かを続けるより先に、涙が滝のように溢れた。
それ以上・・思いは言葉に、ならなかった。
俺は離れた山本に一礼すると、そのまま背を向けて走り出した。
駆け足で通り抜けた道路にも、平たく雪は積もり続けた。
明日は道路がきっと凍りつくのだろうと俺は走りながら思った。
思いが願いに変わる前に凍り付いてしまえばいいと、思った。
空港のデッキは憎らしいくらいに晴れていた。
成田発、ミラノ行きは午前九時半出発だった。
この便に乗ることは母親にしか言ってなかった。
その母でさえ、俺がイタリア留学すると思い込んでいた。
すべてはリボーンの手の上で着実に、しっかりと
進められていたことだった。俺は彼に逆らうつもりはなかった。
むしろそうすることで彼を・・俺の知らない世界でどんどん
有名になっていく山本を忘れようとした。
思い出にしてしまえば恋も憧れも美しく色あせるだろう。
思いひとつまとも告げる勇気のなさに自嘲気味に笑うと――免税店を
抜けて猛ダッシュするひとりの男の影がふと眼についた。
昨日別れたばかりの、クラスメイトによく似た影だった。
「――ツナ!」
呼ぶ声に俺は確信した。彼は山本だった。
パスポートも無しにゲートを乗り越えたらしい彼は
空港の警備員を振り切ってここまで――出発ゲートまで乗り込んできたのだ。
紺色の制服の警備員が彼を捕まえるまであと数秒あるか、ないか。
俺はゲートを後戻りしそうになる自分を押し留めて
チケットを握り締めた。
もう一歩踏み出せばイタリア行きの飛行機に乗れる――運命は
すぐそこで口を開けて待っていた。
「・・何しにきたの?」
声が震えて俺は下を向いた。
眼が合うと何もかも、見透かされそうだった。
「お袋さんに、聞いた。ツナがここにいるって」
答える彼の息は切れている。
検閲からここまで、猛スピードで駆け抜けたんだろう。
「・・帰りなよ、山本」
山本はゲートから身を乗り出した。
彼を取り押さえようと警備員が二人彼に飛び掛ったときだった。
「・・行くな!ツナ・・!」
彼が叫んだ瞬間、銃声が二発、フロアを駆け抜けた。
俺が覚えているのは「行くぞ」という低い声と、甲高い悲鳴と
目の前で閉じた・・金属の重い扉だった。
気づいたとき俺は、そのドアの内側で座り込んでいた。
ジェット機はどんどん上昇する。
俺はその時はじめてリボーンの指定した便が、ボンゴレで
貸しきった専用機だったことを知った。
操縦桿を握る人物のそばにモレッティさんが立っていたからだった。
「・・山本」
彼の名前を呼ぶと、リボーンに引きずりこまれたらしい彼が
いてて・・と頭を押さえていた。
彼が警備員に威嚇発砲し、二人が怯んだ瞬間リボーンは
山本と俺を同時に飛行機へ押し込んだのだ。神業とも言うべき素早さだった。
「・・飛んじゃったね」
「・・だな」
青い空が広がる縁の丸い窓を茫然と見ながら俺が言うと、山本は頷いた。
あまり悪びれた様子のない声だった。
「・・どうして来たの?」
俺の言葉に山本はふっと笑って――両手を伸ばした。
温かい腕だった。抱きしめられて俺は、張り詰めていた糸がぷちんと切れた。
俺は彼の胸に頬を当てると泣いた。
涙が灰色のセーターに幾筋も滲んだけどそんなこと気にしてられなかった。
――どうして来たの?なんで俺を・・追いかけてきたの?
あと少しで君を忘れられるはずだったのに。
「やっと、捕まえた」
もう離さねーからな、という山本はこの飛行機がどこに向かうかも
知らない。これから先二人を何が待っているかさえ分からない。けれど・・
「・・置いていくわけねーだろ」
そうしたら絶対追いかけてやるからな、と彼は言った。
置いていくなら地の果てでも付いていくと。
だから、と彼は俺を抱きしめた。苦しくて息が詰まりそうで
どうしようもならないところまで来てしまったのに
震えるほど嬉しくて悲しくて、俺は泣いた。
山本の人生を台無しにしてしまったはずなのに、どこかそれに
安堵する自分がいてそれが狂おしいほど憎かった。
機体は雲を越え大陸と跨ぎ海の向こう、運命の地へ着々と針路を進める。
俺にはもう、止めることが出来ない。
「・・山本の、ばか」
俺が言うと彼は回した腕に力を込めて言った。
「・・俺、ツナばかだから」
だから、いい加減あきらめて俺をそばに、いさせてくれよ。
一年前まで野球馬鹿を自称していたクラスメイトの腕の中から俺は
上空一万メートルで舞う小さな光の粒を見た。
奇跡のような輝きを反射する風花は・・今まで見たどんな雪よりも
儚くて、美しかった。