最初はうまく話せるかさえ自信がなかった。




 理系の彼。




「xに4を代入して――」
 高くも低くもない声が部屋に響く。ノートにペンを
走らせながら、俺は彼の一字一句を頭の奥で繰り返した。
「・・・代入したら、こんどはyをグラフに当てはめる
んですね」
「そう」
 一次関数が分からなくて困っていた俺に、見かねた母親が
連れてきた家庭教師――それがお向かいに住む、スパナさんだ。
 フランス人とイタリア人のハーフだという彼は、金色のさらさらの
髪に真っ青な眼――どうみたってばりばりの「外国人」なのに。
「生まれてこの方日本に住んでる」
 という、中身は純然たる日本人だ。当初会話が通じるのかさえ(万年
英語は赤点)不安だった俺も、彼の生い立ちを聞いて安心した。経歴に
はびっくりしたけれども――・・・。
「世界数学コンクール三連覇、ハーバードから飛び級入学のお誘い
もあった超天才だそうよ」
 スパナさんの事を聞きつけてきた母親は、安心した様子で語った。
 万年赤点の駄目中学生の家庭教師にしては――もったい無さ過ぎる
気がしたんだけど。
「いつもゴミ出しで会う綺麗な奥様が、スパナ君のお母様だった
なんてね」
 世界は狭すぎる、と俺は思う。そしてそんな、並盛町のゴミ捨て場で
俺の家庭教師話は勝手に進んだ。
「スパナ君てね、授業全く出なくて家のこもって発明ばかり
してるんですって。成績が良いから出席日数が足らなくても
卒業できるそうだけど・・・あまりに運動不足だから
ってお母様、心配しててね」
 彼の母親が話すには、友人もいるし、学校が嫌いなわけでは
ないらしい――要は、彼がもっと好きなものがあるのだ。
「だから・・・外出ついでにツッ君の勉強見て欲しいって
言ったら、本人が良いって言ってくれたの!」
 母親は喜んでいたが、俺は半信半疑だった。
――学校にも行かないで、発明ばかりしている人が
なんでうちに?それも・・・勉強が出来ない中学生の
家庭教師をするなんて。
 幾ばくかの教師料を払う、と母親は話していたが、
話を聞く限りバイト代目当てとも考えがたい。
 それに・・・

――そんなすごい人が俺を見たら、あまりの出来の
悪さにがっかりして帰ってしまうのではないか?

 そうなると母親にも、その超天才のスパナさんにも
悪いような気がして、正直俺は家庭教師話には乗り気が
しなかった。頷いたのは「成績が上がったら新しいゲーム
ソフトを買ってあげる」と言う母親の台詞が魅力的だった
からだ。

 そんな俺の杞憂をよそに、スパナさんはやってきた。
「――スパナです。よろしく」
 初めて彼を見たときはびっくりした。真っ白な肌、キラキラ
の髪、ビー玉みたいな眼・・・雑誌のモデルさんのような風貌だった。
運動を全くしない、と聞いていたのにスパナさんは俺と同じくらい
痩せていた――背は俺の、頭一つ分くらい高かったけれど。
――かっこいい!
 ちょっとぼさぼさな頭も、ジーンズからはみ出したシャツも
何故か粋な着こなしに見える。綺麗な人は得だ。特におしゃれを
しなくったって――それだけで充分、存在感がある。
「数学と、理科でいいかな?」
「はい・・よろしくお願いします・・!」
 俺が万年赤点なのは事前に伝えてある――手に負えない、と
思ったら辞退してください、とも。
 それでもスパナさんは、小学生レベルから俺に、数学を
教えてくれた。それは要点を付き、的確で、無駄が無く応用が
聞いた。彼が学校の先生だったらどんなにいいだろう、と思った
くらいだ。

「あ・・あの・・・」
「何?」
「――分からないんです、ここ」
 俺が正直に言うと、スパナさんは何度でも同じ
箇所を説明してくれた。彼の100分の1も脳みそがない
俺のために――細かく、言葉を砕いて。

「・・・すみません」
「何が?」
「理解遅くて・・・それに、もの覚えも悪いし・・」
「分からないから、教えにきてるんだよ」

 スパナさんはさらりと言って、説明を続けた。謝った
俺は――馬鹿だ、と思った。分からないから来てもらって
いるのに、詫びるのはお門違いだ。
――せっかくスパナさんに来てもらっているんだ・・。
今度のテストは、いい点取りたい!

 週に一度の家庭教師の日が楽しみだった。来週にせまった
定期テストの前に――俺はめずらしく、沸きあがるような闘志
を感じた――小学校に置き忘れてきた「やる気」だった。

「あの・・・スパナさん」
「何?」
「お願い・・・いいですか?」
「――勉強のこと?」
「いえ・・・個人的な」
 スパナさんはペンを止めて俺を見た。個人的なことを話すの
は初めてだった。
「いいよ」
 スパナさんの声に抑揚は少ない。表情の変化も少ない――
淡々と教科書を読み、ノートをつける。教え方に一定の
リズムがあり、それを掴むと――俺の理解は急速に発達
した。彼は――俺にとって最高の家庭教師だ。

「・・・来週、定期テストがあるんです。数学の。
それで・・・平均点取ったら・・・」
「――何か欲しい?」
「へ?え?・・あ、いや・・・欲しいものじゃないんです」
「?」
「スパナさんに・・付き合ってほしいところが
あるんです」
「それって遠い?」
「あ・・いえ・・駅前です。ここから十分くらいで」
「――いいよ」
 彼がちょっとだけ笑ったような気がした――気のせいかな?
 もう一度隣を覗いた時には、スパナさんはいつもの表情で
教科書に視線を戻していた。

 定期テストの結果は、ぎりぎり平均点以上だった。いつも
赤点間際の俺からしたら大躍進だ。担任も、テスト用紙を渡す
前何度も俺をちらちら見た――カンニングなんてしてないぞ!
俺が、きりりとにらみ返すと、担任は「よくやったな」と言った。
初めて見た笑顔だった。

 約束通り――俺とスパナさんは出会って初めて二人で外を歩いた。
出かけると知っていたからだろうか――スパナさんは白いシャツに
チェックのズボンを履いて現れた。足元は革靴――俺も高校生に
なったらこんなかっこいい着こなしが出来るだろうか?あと二十センチ
は身長が要る気がする。

「・・・すみません、付き合わせちゃって」
 商店街を通り抜けながら詫びると、彼は額の上で手の影を作りながら
「おめでとう」
 と言った。
「あ・・・ありがとうございます」
「62点。よく頑張った」
 スパナさんに褒められると嬉しい!・・そう、俺にとっては奇跡的な
点数、快挙だ。今日はきっと夕食にハンバーグが出るに違いない。

「あ・・ここです。酒屋さんの隣」
 「竹」とかかれた暖簾を指差すと、俺はチャイムを押した。
 はい、という声と共に出てきたのは、真っ黒に日焼けした
野球部のエース、クラスメイトの山本だった。
「おっ、待ってたぜ〜ツナ」
 山本は俺の肩を何度か叩くと、スパナさんに一礼した。
「ツナの友達の山本です」
「・・・どうも」

 山本は俺とスパナさんを自室に案内した。王貞治のポスター
にイチローのサインボール。山本の部屋は野球グッズでいっぱい
だった。
「見て欲しいのはこれです・・・」
 山本がベッドの下から取り出したのは、アマチュア無線の発信機
だった。
「へぇ・・・」
 スパナさんが眼を開く。興味が沸いたようで、俺は内心ほっ、と
していた。山本から相談されたときは、スパナさんが引き受けてくれる
か自信が無かったけれど――テスト平均点突破のお返しになら頼める、と
俺は思った。スパナさんはきらきらした瞳で古い無線機を眺めている。
「物置で見つけたんです。オヤジが昔、アマチュア無線部で・・その時
のだから古くて」
――俺もアマチュア無線やってみたかったんだけど・・あれ、買うと
結構高いんすよね。
 山本の話も半分に、スパナさんが俺を見た。
「ドライバーある?あと・・ハンダも」
「あ・・はい」

 三十分も経たない内に、スパナさんは無線機を綺麗に直して
しまった。流石・・・というより、これくらい朝飯前?
――失礼なお願いしちゃったかなぁ・・・。

 山本の家でお寿司をご馳走になると、スパナさんは俺を
家まで送っていく、と言った。
「帰る前に、一つ寄っていい?」
「あ・・・はい」
 スパナさんの寄り道ってどこだろう?そう思いながら後を
付いて行くと・・・彼は駅前の小さな駄菓子屋さんの前で
止まった。
「いつもの・・・二つください」
 スパナさんと駄菓子屋。何だかとてもミスマッチだ。
 中に入りそびれて店の前で彼を待っていると・・・
「はい、おやつ」
 ボルト型の飴を一つ、スパナさんがくれた。形が好き
なのかと思ったら――味が好みらしい。スパナさんの意外な
ところ発見。小さくて、甘いものが好き。

 彼からもらった飴をなめていると、スパナさんが
突然、口を開いた。
「今日の友達・・」
「はい?」
「ほんとに友達?」
「え?あ・・はい、そうです・・けど」
 質問の意味が分かりかねて戸惑った。スパナさんは何を気に
かけているのだろう。
――壊れた無線機を直してもらったの、まずかったかな・・?
「また行くの?」
「え?あの・・どこにですか?」
「お寿司屋」
「山本ん家ですか?うーん・・・分かんないです。
山本、忙しいから・・・」
 野球部のエースは休日も練習で多忙だ。俺も教室で言葉を交わす
程度で彼のことはよく知らない。気前がよくて大らかで明るい――
そして誰よりも頼りになることは知っているけれど。ドジで駄目で
もじもじしている俺とはあまりにも対照的で、接点が見つからない。
――俺とスパナさんも一緒、か・・・。
 努力して平均点がやっとの凡人と、アメリカの大学行きが決まっている天才。
 こうして一緒に歩いていることが奇跡だと、今更ながら気づく。

「よかった」と、スパナさんは言った。
「・・・?」
 何が何だか分からない。スパナさんの言葉は短いから――時々
主語を確認したくなる。誰にとって何が――・・

「取られなくて済む」

 夕陽に照らされてスパナさんの表情は見えない。彼の頬が
赤いのは沈み行く太陽のせいか――それとも。

 それから俺はスパナさんに家まで送ってもらった。
 どんな話をしたかは覚えていないけれど――なんとなく
俺は、それどころじゃなかった。スパナさんが俺の右手を
急に繋いで、離してくれなかったからだ。
 いつでも遊びに来てもいい、と帰り際スパナさんは言った。
その言葉を間に受けて彼の家に遊びに言った俺は、そこで
さらに彼の意外な側面を知ることになるのだけれど
――それはまた、別の話にしよう。