神を抱く。
病室の天井は暗い。医務室で手当てを受けながら綱吉は思った。
医者の見立てでは全治二週間、業務に戻れるにはさらに二週間はかかるだろうと言われた。
自動的に明日開かれる外務省幹部との食事会は欠席となる――ファミリーのボスなのに。
綱吉は小さく、ため息を落とした。範囲が狭いとはいえ、火傷は跡が残る。 だからこそ病後が大切なのだ、と医者から教わっている。怪我をするのは、初めてでは無かった。
最初は十代目就任のお披露目会だった。綱吉は階段を踏みはずし、足の指を骨折した。
軽微な骨折だが、歩けないことは確かだった。お披露目会は延期となったが、その後会場と
して予約してあったホテルから大量の爆薬が見つかり、ボンゴレ内部は一次騒然とした。
身内だけの会に仕掛けられた爆薬――それはファミリー内部に綱吉就任に対する不穏分子を意味する。
状況を重く見たリボーンはお披露目会を中止し、戴冠式のみを実施すると発表した。
――ボディチェックは念密に。招待状を持たないものは政府の要人であっても入れるな。
例年に無く厳しい警備の中綱吉の戴冠式は開催されたが、周囲の期待を他所に綱吉はいつまでも姿を現さなかった。
原因はメイドが作ったスープによる、食中毒だった。お腹を抱えてベッドにうずくまる綱吉にリボーンは ため息を落とした。が、その後戴冠式は別の、おぞましい理由のために中止となった。 式のために作られた料理を食べた部下や招待客が会場で何人も変死したのだ。 つまみ食いしたらしいウェイターも遺体で見つかった。招待料理に毒を入れた人間がいる――ボンゴレ内は再び緊張した。
誰かが十代目を殺害しようとしている――そんな噂もまことしやかに流れた。 リボーンは大規模な催しを諦め、九代目・十代目それぞれの守護者と幹部だけで慎ましく、戴冠式を行った。
――ボンゴレ内部にツナをボスとすることを好まない人間がいる以上、表に出すことは禁物だ。
本来ならボスは就任後世間に周知させるために、会議や催しに多く参加するのが慣例であったが、 リボーンは綱吉がまだ若いことや、イタリア語に不得手なことを理由に獄寺を代理に出席させた。 獄寺は見事に代役をこなし、外部勢力のボンゴレに対する威厳は保たれてはいたものの、やはり 綱吉の登場を望む声も多く上がった。ボンゴレの構成員の間では既に、綱吉の評判は上々だった。
――どうして俺は、外の会議に出られないの?
綱吉の質問にリボーンは一言「安全が最優先だからな」と答えた。
「お前がボスを継ぐことを良く思わない人間がいる」
「・・でもそれは、ボスとして仕方の無いことだってディーノさんが」
「問題は、お前に敵がいることじゃない。俺たちがそれを、防ぎきれていないことだ」
リボーンはお披露目会のホテル爆破未遂や、戴冠式の毒殺未遂を例に挙げた。
いずれも、守護者はおろかリボーンでさえも、企てられた暗殺計画を見抜けなかったのだ。
偶然とは言え綱吉の怪我や事故が、彼を執務室に留め、危険から守ってくれたと言っても過言ではない。
事実戴冠式では二十名以上の部下と招待客が、毒入りオードブルを口にして死んでいる。
――ボスさえ執務室にいれば守れる。不穏分子はここへたどり着く前に排除できるからな。
リボーンはそう納得していたが、綱吉は首を縦には振らなかった。
「今度の外遊は俺も・・出席させてよ」
――俺はボンゴレの、正式なボスでしょう?
綱吉が上目遣いに頼めば、流石のリボーンもノーとはいえない。
会場を入念に確認し、警備は倍増した。彼は守護者達と綿密に警護計画を練った。
それは完璧なものだった。たとえミサイルが飛び込んで来ようがボスは自分たちが守る
――そう彼らは心に誓っていたが、外務省幹部との食事会前日、綱吉はメイドが不注意で
こぼしたコーヒーを肩から浴び、むき出しであった腕や手に火傷を負った。
命に別状は無いものの、主治医からは安静を言い渡された綱吉はしぶしぶ用意されたベッドに身を、横たえた。
外の部屋では守護者達が配達された見舞い状や花束の受け取りに追われている。
「今日一日はそこで寝ていろ」
リボーンは肩から指先まで包帯を巻かれたボスを見ると、労うように言った。
「菓子でも何でも、お前の好きなものを買ってきてやる」
治療中は痛い痛いと叫んでいた綱吉だったが、痛みが引いたのか大人しく頷いた。
泣いた目じりが赤く腫れ、不憫さを増している。
「・・明日は、無理だよね」
綱吉の額を撫でながら、リボーンは「そうだな」と答えた。
「獄寺か山本に行かせるさ――ただの食事会だ。大した行事じゃない」
「でもボンゴレの――」
綱吉の言葉を、リボーンは人差し指で遮った。今は、業務よりボスの体が第一だった。
「もう寝ろ・・明日のことは心配するな」
「・・うん」
痛み止めに、と医師から処方された錠剤を飲むと、綱吉は穏やかに眠りに付いた。
閉じた瞼から一しずく、涙が零れる。リボーンはそれを拭うと、表情をいつもの
厳しい物に戻し、医務室を後にした。
――外務省幹部の食事会に兵士が乱入。人質は朝五時に解放。
そんな見出しが新聞の一面を飾ったのは、綱吉が負傷して三日目の朝だった。
その場に居合わせた部下から事件については報告を受けていたものの ――もし、ボスが出席していたら? リボーンは溜飲の下がる思いで、見出しを読んだ。 事件は昨日の午後十時、食事会の宴たけなわと言った頃に起きた。 軍事費削減に反意を示した軍部の若き将校達が複数名、食事会に乱入し、幹部達を人質に取ったのだ。 彼らの主張は軍事費の予算計上とその維持、軍部の待遇改善だった。 マフィア関係で呼ばれていたのはボンゴレだけだったが、 綱吉は出席せず、代理の獄寺もボスの護衛のため 途中退席した。その矢先の出来事だった。
――出席しなくてよかったな。
リボーンは素直にそう思った。外務省高官とマフィアの癒着は暗黙の了解だったが、
もし兵士達が乱入した時にボスが居合わせれば、その秘密は白日の下に去らされる
――ボンゴレは威厳も、立場も失うだろう。綱吉とて収監されるかもしれない。
外務省との食事会はいわゆる――ボンゴレが用意した賄賂なのだ。
リボーンは新聞を読み終えるとそれを丸め、ゴミ箱に放った。
知れば綱吉がショックを受ける。ボスの心中を穏やかにしておくのも側近の務めだ
――リボーンは見舞いにと買ったケーキやピザを持って、綱吉の病室へと向かった。
綱吉の怪我は順調に回復し、彼は医者の見立てより早く業務に復帰した。
そんな彼の元に嬉しいニュースが届いたのは、週の終わりのある晴れた午後だった。
いつも通り彼が書類にサインを走らせていると、彼とその守護者宛に大きな百合の花束と、
快気祝いのパーティの招待状が届いたのだ。
「行ってもいいでしょう?」
愛らしいピンク色の招待状は、大よそボスに宛てるものとしては不相応だったが、
長らく外務から離れていた綱吉の心を躍らせるには十分だった。
主催者はボンゴレの同盟ファミリーの中でも古株で、信頼のおける存在だった。
リボーンは頷き、綱吉に新しいスーツをプレゼントする、と約束した。
久しぶりにはしゃぐ彼を見てリボーンも「たまには息抜きも要るな」と言った。
「そうだよ・・ずっと室内にいたら息が詰まっちゃう」
「キャバッローネも呼ぶか?」
「うん。ディーノさんにも会いたい」
会場へ向かうハイヤーを予約すると、綱吉は普段以上に張り切って、仕事に取り組んだ。
快気祝い当日。綱吉はリボーンが用意したスーツに意気揚々と着替え、
迎えに来た黒塗りのハイヤーに乗り込んだ。場所は同盟ファミリーが借り切ったという
古城で、それはイタリアでは屈指の美しい絶壁に聳え立っていた。
城でのパーティと聞き張り切っていた綱吉だったが、ハイヤーが海に近づくたび
彼の表情は徐々に険しくなった。
「大丈夫か・・ツナ?」
乗り合わせたディーノが見かねて声をかけると、綱吉は口を右手で抑えて「気持ちが悪いんです・・」と 言った。車酔いをしたらしい。ディーノは綱吉を気遣い、パーティに遅刻すると先方に連絡を要れ、 ハイヤーを近くのホテルに向かわせた。彼を安全なところで、介抱しようと考えたのだ。 車が古城ではなく、ホテルに向かっていると聞いた綱吉は青ざめたまま「リボーンは?」と尋ねた。
「先に会場に向かってる。心配するな、ツナ」
「・・駄目」
綱吉の顔色は卒倒しそうなほどに蒼く、唇は血の気を失って震えていた。
「ディーノさん・・・お願い」
――俺を、連れて行ってください。
ディーノは迷ったが、結局青ざめた綱吉をハイヤーからは下ろさずそのまま、古城に向かった。 朝は晴れていた天気も午後になると下り坂となり、ハイヤーが城のそびえる崖の真下に着く辺りには 大粒の雨が窓を容赦なく打ち付けていた。大荒れの天気にディーノは思わず、「引き返そうか?」と尋ねた。 いっこうに病状の回復しない綱吉に既に綱吉の息は荒く、ハイヤーの奥でぐったりと沈み込んでいた。
「・・ディーノさん、リボーンは・・」
「あ、リボーンなら――」
ディーノが言いかけた瞬間、二人の乗るタクシーの目の前で――崖が根元から轟音を立てて崩壊した。 その上に建つ古城もまた、足場を失って崩れ――二つは折り重なるように大時化の海に落ちていった。 一瞬の出来事だった。
ディーノはしばらく呼吸すら忘れ、目の前の光景に見入っていた。
もし到着があと一歩早かったら? 城ごと海に落ち、おそらく命は無い。背筋を滴る戦慄と悪寒――九死に一生を得た彼が振り向くと、 ハイヤーの後部座席に――愛しい弟分の姿は無かった。
彼は慌ててハイヤーを飛び出した。綱吉は崖が崩落する寸前まで車内にいたはず
――まさかリボーンを探して?
車外にディーノが周囲を見渡すと、崩れた崖のちょうど先端で座り込む小さな影を発見した。
綱吉だった。
「大丈夫か・・ツナ」
このままでは、風邪を引いてしまう。ディーノはコートを脱ぐと、綱吉の細い肩にかけた。
綱吉は呆然と座り込み、崖の先、城があったはずの場所を見上げている。
そこには漆黒の闇が浮かぶばかりだった。
「――リボーンが・・」
綱吉の頬を流れる大粒の涙に、ディーノの心は痛んだ。
リボーンは綱吉より早く城に着いている。おそらく彼は城ごと荒れ狂う海へ・・・。
ディーノは唇をかみ締めた。現実を受け入れるにはまだ、辛すぎる。
ディーノもまた、尊敬する家庭教師を失ったショックを隠しきれなかった。
「戻ろう・・ツナ」
「・・ディーノさん・・どうしよう。リボーンが・・・」
「――馬鹿ツナ?」
聞き覚えのある声に、二人は振り向いた。座り込む彼らの後ろに立っていたのは
――先に古城に向かったはずの、リボーンだった。
「・・どう、して・・」
「ディーノから電話があってな。てめーが車酔いしたっていうから、
薬を買いに行ってたんだ。そしたらこのザマだ・・全く、寿命が縮んだよ」
リボーンの言葉に、綱吉は立ち上がり、彼を強く抱きしめた。ずぶぬれのスーツだったが、
リボーンはそれを拒まなかった。
「お互い・・命拾いしたな」
綱吉を抱えてハイヤーに乗せると、ディーノはリボーンにそう零した。
二人の間では毛布に包まった綱吉が寝息を立てている。
心配の糸が切れ、眠り込んでしまったのだ。
リボーンは愛らしい瞳を真っ赤に染めたボスの泣き顔を思い出しながら「違うな」と言った。
――俺たちが助かったのは偶然。そして・・
綱吉が助かったのは必然だと、彼は思った。
「――あいつをどうしても、死なせたくない奴がいる」
「・・リボーン?」
ディーノはいぶかしげに、家庭教師の横顔を眺めた。
彼は綱吉が十代目に就任し今にいたるまでの、一部始終を知らない。
外部の人間には綱吉は今だ、本部で研修中としか伝えていないからだ。リボーンは片眉を器用に上げると
「後で説明する。まずはシャワーだ。それから――」
温かいスープでも飲もう。リボーンの言葉にディーノは頷き、彼も深い眠りに落ちた。
疲労がピークに達しているのだ。リボーンは幾分血色を取り戻した綱吉の横顔を見つめて思った。
――お前をどうしても死なせたくない奴がいるとしたらそれは・・神だ。
これまでの、不運と隣り合わせの幸運の連続を考えればあながちそれが、想像の産物とは思えない。
今日自分が一命をとり止めた要因もまた、ボスの体調不良なの
それが無ければ、否、ディーノが自分に電話を掛けなければおそらく、今頃己は海の藻屑だ。
自分もまた、計り知れない大きな手の平の上で生かされているだけなのか?
信仰心など何一つ持ち合わせないリボーンだったが、自分でも意外な程神妙な気持ちになり、
隣で寝息を立てるまだ幼さの残るボスを優しく、しかし確実に抱きしめた。
もしこの世に神が存在しているとするならば今
――俺は神を、抱いている。
降りしきる雨の向こう、星の光も届かない闇を眺めながらリボーンはふと、そう思った。