[ 花束 ]






 きっかけは些細なことだった。ボンゴレ十代目はミラノの表通りの
あるカフェで毎週決まったランチをたしなむ。トリコロールのランプが
並ぶ明るい店内と、窓から覗く緩やかな川の流れがお気に入りなのだ。
 特製のカフェ・オ・レと、ジャズを聴きながらゆっくりと穏やかな
午後を過ごすにはそこはちょうど良い大きさのカフェだった。
 その日も彼は部下を従えて悠々と昼食を楽しんだ。お忍びできているので
ボディガードは少なめ、店内には一般客もいたが彼はその解放的な空気が
好きだった。いつものレストランではこんなに羽を伸ばせない。
 食べ終えた彼が一歩、カフェの玄関を出るとその前で待ち構えていた
男が素早く、彼に近づいた。
「――これ、受け取ってください・・!」
 男は早口でそう言い、彼に紅い薔薇の花束を押し付けてから走り去った。
追いかけようとするボディガードをツナは静止した。このカフェの常連の
青年で、窓側でひとり読書する姿をツナは何度も見ていた。ツナが毎日何人か
部下を従えて入店するので、どこかの要人と勘違いしたのだろう。その
容姿の美しさと穏やかな雰囲気もあって、ツナはマフィアのボスの中でも
ファンが多かった。会合で私的に食事に誘われたり、ものを送られたこともたくさん
あったので――ツナはこういうサプライズには慣れていた。一方的でも
ささやかな好意は嬉しかった。
 ベンツの車内で一部始終を見ていた獄寺は、用事がありますので、と
ツナを先に車に乗せて本部に送るよう指示した。十代目は詮索無用といったが
あの青年の正体を突き止めておく必要があった。右腕である以上害がなくても
彼に近づくすべてを監視し、状況によっては抹殺する。見た目はただの花束で
金属探知機も反応しなかったので、彼はそのまま十代目を送り出した。あとは
青年の身辺を洗うだけだった、




 獄寺は駆け出して青年の後を追った。生まれ育ちがイタリアであるため
地理には詳しい。追いかけられることを想定すれば、逃走ルートも割り出せた。
ミラノの地図を脳裏で描きながら路地裏を走ると、ある道の端で彼は立ち止まった。
――血の匂いが、する。
 まさかと思い角を曲がると、先刻見た青年らしき男がうつ伏せで倒れていた。
らしき――というのは、その男の首から上が存在していなかったからだ。頭と首があった
辺りは一面血の海になっていた。ところどころ残る残骸は脳と頭蓋骨、脊髄の
一部だろう。灰色と白がまじった破片を見た瞬間、獄寺はその場で嘔吐した。
 誰かが頭部が粉々になるほど、男を撃ったのだ。何の武器も持たない、市井の
人間を。背後から。凄惨な現場など見慣れていたが、これほどまでにおぞましい
殺し方も初めてだった。たいがいマフィアや殺し屋は無駄な血を流すのを嫌う。
それは彼らにポリシーがあるからだった。し止めるときは急所に一発。血が飛び散るので
頭など狙わない。まして跡形もなくなるほど人を撃つことなど――ない。
 一度その場にしゃがみこんでから獄寺はよろよろと立ち上がった。誰かが
先手を打った。それも狂気に近い殺り方で。よほどの恨みがこの男にあるのか
それほど十代目に執心しているかは獄寺には分からない。ただひとつ言えることは
撃った人間はすでに正気を失っているということだった。




 本部に戻ると十代目はすやすやとベッドで寝ていた。午後からは確か
リボーンさんが警護だったな、と獄寺は思った。先程の花束が丁寧に
花瓶に生けられている。獄寺は例の男のことを記憶の中で抹殺した。
十代目はおそらく純粋に喜んだだろう。惨殺されたことなど耳に入れては
ならない、と思った。



 しばらく肉料理は食えないな、と思いながら彼が部屋を出ると、廊下を
歩いてきたリボーンと眼があった。リボーンはネクタイを締めなおしながら
「護衛、ご苦労」と言った。
「後は俺がみるよ」
「あ、はい――」
 言いかけた瞬間、獄寺は異様な戦慄に襲われた。通り過ぎたリボーンから
香る鮮烈な匂い――あの現場を見たものだけが知る、人間の血と臓腑が
混じった異臭――間違えるはずが、ない。
 獄寺が振り返ると、彼はちょうどドアノブに手をかけていた。
「・・・」
 無言の獄寺は蒼白だった。そう、もしあの時自分より早くあの場所に駆けつけた
ものが目の前の――冷酷無比なヒットマンだと、したら。


 そして彼が自分の遅れた理由を知っていたとすれば


 獄寺の額に冷や汗が滴った。気づきたくはない、考えたくは無いが――
あの時男を残酷にばらばらにしたのは・・他ならぬ、目の前のヒットマンなのでは?
 リボーンは獄寺を一瞥すると、一旦視線を床に落とした。



「――漏らせば、殺す」



 地響きのような低い声が轟いた瞬間、獄寺は悲鳴を上げそうに
なった。それでは十代目が目覚めてしまう――と彼は両手で
口を押さえた。開いたままの顎ががくがくと揺れて、膝から崩れて
しまいそうだった。獄寺は背中を壁に押し付けて何とか起立し
恐怖のあまり浮かんだ涙を飲み込んだ。身近な存在にこれほどの
戦慄を覚えたのは初めてだった。



 リボーンは彼の様子を見やると表情をきりりと整え、いつもの
ポーカーフェイスに戻した。
 おびただしい血を浴びた悪魔が向かったのは、天使の眠るベッドだった。