君の指は流れる白と黒の鍵盤を。
君の指は囁く忠誠を、尊敬を、愛を。
君の指は奏でる哀しくも温かい音色で。
誰も入り込めない二人だけの秘密の場所で。
Classics
- Allegro -
ピアノを弾いて欲しい。
そう君に尋ねる。
獄寺君は少し困った様子で蒼い眼を細め、
鍵盤を開くと「勿論」と答える。
「構いません。十代目のためなら」
うそつきな君はゆっくりと鍵盤に指を下ろす。
滑らかにプレリュードが始まる。
獄寺君と暮らし始めたのは高校二年の夏だった。
始めは家庭学習と称して互いの家を行ったり
来たりしていたのだけれど。
父親の出張に母親が同行し、お抱え家庭教師も
イタリアに帰ってしまったため、俺の家は一時では
考えもしないほど閑散としていた。
ちびたちやビアンキもそれぞれの事情で
イタリアに戻ってしまったのだ。
「俺のうちに来ませんか、十代目?」
そう言われて一度も、俺は自宅に帰っていない。
「獄寺君、おなか好いた」
「はい、何かつくりますね」
「・・獄寺君、眠い・・」
「今、布団敷きますね」
「おやすみ、獄寺君」
「おやすみなさい、十代目」
よい夢を。そう言って頬にキスをして俺たちは
並んでベッドに横になり眠りにつく。
布団に入ってしばらくすると獄寺君はごそごそと動き出して、
静かにこっそり洗濯機と食器乾燥機のスイッチを入れる。
俺はこの部屋で掃除・洗濯・炊事のどれも、やったことがない。
獄寺君が許してくれないからだ。
「包丁を持って、十代目が怪我したら困ります」
「洗濯機は危険です。十代目が挟まれないか心配です」
「掃除は汚れます。十代目が埃を吸って体調を壊したら
元も子もないです」
――そんなことないと思うんだけどなぁ。
そう思いながらも俺は反論の言葉を持たなくて、
結局獄寺君に言いくるめられて俺は大人しく、
テレビの前に座っている。
――早く、帰ってこないかな・・獄寺君。
俺、本当は何でもするつもりなのに。
獄寺君は全部「俺がやります」って。
あんな――楽しそうに、嬉しそうに言うから。
――ついつい・・任せてしまうんだよな。
それがあまり良くないことであるのは、分かっている。
リボーンにも「お前らは同化しすぎなんだ」と言われた。
その時は何も言い返せなかったけれど・・
――俺に、こんなに優しくしてくれるのは・・獄寺君だけだから・・
そう思って、心の中に渦巻くものに蓋をした。
閉じ込めたものがいつか、互いを傷つけることさえしらなかった。
俺たちはまだ、幼くて。
互いに「好きである」「一緒にいる」ことに依存していて。
俺は彼の主張に折れ、彼は俺の我儘を何でも聞いて、
――それこそ大嫌いなピアノだって弾いて――
満足していた。
それを愛だと思っていた。
「獄寺君、これ・・なんて曲・・?」
鍵盤に指を走らせる彼の背中にもたれる。
弾いてとねだるのに邪魔したら、俺聞き分けの無い猫みたいだよね。
「ショパンの子犬のワルツです、十代目」
「――全部覚えているんだ」
「・・はい」
忘れたくても指が全部記憶しているんだって。
すごいね、人間の体って。
「獄寺君の弾く曲って、何でも・・辛そうだよね」
ふいに、獄寺君の指が止まった。
「・・獄寺君」
彼は眼を閉じて、こう言った。
「十代目と一緒にいられて・・幸せです」
「・・うん」
そしてまた、もの哀しい旋律が始まる。
ずっとここで暮らしましょう、とある日、獄寺君は言った。
高校三年生の時、だったかな。
俺たちは同居しながら、時々は学校に通っていて、
時々はさぼって。うちでごろごろしたり、コンビニに
買い物に行ったり、洗濯物を干したり、夜のちょっと
下世話なテレビ番組を見て過ごしていた。
俺たちの生活には二人だけ――しかいなかった。
それが当たり前だったから、俺はちょっと面食らった。
「ずっと一緒に暮らしましょう、十代目。
貴方さえいてくれれば、俺は」
遮って彼は、俺の肩に頭を乗せた。
抱きしめていいのか俺は迷った。
ここは甘やかすところ?
それとも、愛をもって突き放すところ?
「俺、十代目がいればもう・・何もいらない。
本当に。本当にです。だから」
「・・獄寺君、それは」
――それが許されないことを君が
一番分かっていたんじゃ、なかったの?
「それじゃ・・俺たち、何も始まらないよ」
俺たちが何故出会ったのかさえ、忘れてしまう
くらいに、夢のような日々だった。
彼がいて、俺もいて、後は他に何もなくて。
互いの中に入り込んで境目もなくなってしまえたら
どんなに幸せだったのだろう。
でも、もう愛ですらない。
これは病気だ。
互いを盲目にする――病なんだ。
「――眼を背けているだけだよね・・いつまでたっても」
十代目、と彼は悲痛な声を上げた。
「獄寺君・・ごめんね、俺全部・・知ってた」
「・・・」
君は何も答えない。俺は、事実しか言えない。
「――高校を卒業したら、ボスになるよ」
そう決めたんだ。だから。
「もうここにはいられない」
言った瞬間、獄寺君はその場に崩れてしまった。
彼をそっと抱きしめて、ごめんね、と繰り返す。
ごめんね、ほんとは全部知ってた。
これが、君の用意してくれた、俺の幸せだったこと。
このささやかな生活が、イタリアに行くまでに許された
かりそめの、幸福だったこと。
リボーンが戻ってきたのは二年ぶりだった。
二年間――獄寺君と二人きりで、安穏とした生活を送る。
それが、ボスに就任すると約束した時に俺が提示した、交換条件だった。
「・・気は済んだか」
バカップル、と言われて肩をすくめる。
そんな言葉、君が使うなんて意外。
「うん、楽しかった」
「――獄寺は?」
「・・奥にいるよ」
「喧嘩したのか」
「・・ううん、違うよ」
これが夢なら永遠に、覚めないで欲しいと願っていただけ。
俺には、獄寺君しかいなくて。
獄寺君には、俺しかない。
誰からも干渉されない、二人だけの日々。
二人だけの生活が永劫続くなら悪魔に魂を売ることさえ
厭わない――彼は俺にそう言ってくれたけれど。
俺たちの運命が変わるわけじゃないんだ。
幸せを知りすぎてしまうと、離れる時それは鋭利で
残酷な刃に変わる。それはきっと、君を傷つけた。
「・・明日だね。ミラノ行き――ちゃんと乗るから」
リボーンを見送ると俺は、奥の部屋のドアをノックした。
「・・獄寺君、今、リボーンが来てね・・」
返事は無い。
「・・獄寺君・・?」
部屋の中には誰もいなかった。
ただ、浅葱色のカーテンだけが夕闇に揺れ、
ゆらゆらとたなびいていた。
部屋を飛び出して、どれくらい走ったのだろう。
息が上がるまで町中を走った。
夜の街は鮮やかだったけれど心の中は真っ暗だった。
獄寺君がいない――ただ、それだけが。
どうして俺をこんなにもばらばらにしてしまえるのか。
その感情の名前を、ずっと前から知っていた。
言葉にしてしまうのが、怖かった。
「・・十代目?」
どうしたんですか、と聞かれて俺は、心配そうな顔で
俺を見つめる彼に――気づいた。
獄寺君は赤いカップを二つ、コンビニの袋から出して微笑んだ。
「アイスクリームが切れていたんです、十代目。
確か・・バニラがお好きでしたよね?」
「・・・」
「十代目?」
「――何でもない」
呟いて彼の肩に頭を乗せると、獄寺君は真っ赤になって
「か、帰りましょう・・十代目」と裏声で言った。
俺が泣いていたことに、気づいたからかもしれない。
「も、もしかして苺がご所望でしたか?
それなら俺のと交換しましょう、十代目」
「違う・・」
「じゃあ俺買ってきます、チョコチップとミントどっちが――」
「違うよ」
獄寺君、そう言って君を抱き寄せる。
暗がりに二つアイスクリームが転がった。
俺の欲しいのは、バニラでも苺でも、
チョコチップでもミントでも、無いよ。
「・・獄寺君。俺、君がいればいい」
愛してる、大好きだよ、と囁きながらついた嘘。
離れなければならない運命を盾にして。
「俺、君しかいらない・・本当だよ」
「十代目」
顔上げてください、と言われて首を振る。
だって今、一番汚らしい顔をしている。
「汚くなんてないです、十代目」
「っ・・ふ・・くっ・・」
しゃっくりをあげる俺の背中を獄寺君は何度も擦った。
夜が明けるまでそばに、居てくれた。
「昨日・・リボーンが来たよ」
荷物を片付けながら告げると、獄寺君は哀しそうに眉を歪めた。
「俺――獄寺君が好きって言ってくれて。
ここに居たいって言ってくれて・・嬉しかった」
「・・・」
「君のそばにいられるなら何だってするつもりだったよ」
それは俺も同じです――十代目、と彼の
視線が答える。俺は無言で頷いた。
「ねぇ、獄寺君。ショックを受けないで・・聞いてね」
そう前置きして。
「俺、君のために十代目になるんじゃないよ。
俺のためになるんだ。君が望むなら、ボスだって
何だってやってやるって、一緒に暮らすまで思っていたよ。
でも・・気づいたんだ。君が俺を望んでくれた理由――獄寺君、
前に言ったよね?こんな形で出会わなくても恋に落ちてた。
貴方をどんな名前で読んでも好きになってた、って。
俺、君の言葉を思い出す度思うんだ。
自分の足で立って生きて、いこう――って」
獄寺君は何も言わなかった。
泣きはらした瞳で何度も、うん、うん、と頷いていた。
「あ、勿論・・その時は、獄寺君にそばにいて欲しいと
思っているんだけど」
「じゅうだいめぇ・・」
そんなヤギみたいな声、出さないでよ。
苦笑いしながら言葉を繋ぐ。
君がいなければ願いもしなかったこと。
出会わなければ考えもしなかったこと。
君を変えたのが俺ならば。
俺を変えてくれたのも、君だよ。
「だから考えた。俺はどうしたいのか。
何になりたいのか・・そしたら、答え一つしかなかったんだ」
「イタリアに行くこと・・ですか?」
「・・うん。正確には、君に一生、十代目って呼んでもらうこと」
「じゅ、じゅうだいめ!」
がばっと獄寺君が俺に抱きついてきて、俺たちはそのまま
真後ろにあったソファーにちょうどよく倒れこんだ。
獄寺君はイタリア語と日本語で大好きです、愛してます、
とか繰り返して俺に――銀色の髪を押し付けた。
まるで大きな犬が飼い主にそうするように。
「あのね、獄寺君」
「何スか、十代目」
「イタリア語、教えてくれない・・?」
――俺、獄寺君がずっと昔から喋ってた言葉、知りたいんだ。
「勿論です、十代目」
――手取り足取り教えて差し上げます!
獄寺君は腕まくりをして微笑んだ。
涙は影も形もなかった。
――そして、俺たちはイタリアに渡った。
それから俺は、彼から、ピザの焼き方や、
美味しいパスタの茹で方に(イタリアって
それくらいしか思い浮かばない)
カフェ・ラ・テの作り方――を教わった。
どんなに俺が失敗しても彼は、「天才です、
素晴らしいです十代目」と、青い瞳を輝かせていた。
――ねぇ獄寺君
ピアノを教えて欲しいっていったら君はまた、
困った顔をするんだろうね。
あまり君は俺に、過去を話してはくれない。
こんなにそばにいるのに、君を教えてくれない。
――でも俺はいつか、君が俺に話してくれたような
お伽話を君に、見せてあげたいと思っているんだ。
あれはつくり話じゃない――誰かと誰かの未来だったんだよ、って。
一人ぼっちの王子様がたった一人のお姫様に出会う話
二人は小さな森の、小さな家で楽しく暮らすんだ。
片方はピアノ、片方はバイオリンを弾いて。
森の動物たちを相手に、演奏会を開きながら。
そして、幸せなまま人生の幕を下ろす。
そしたらあんなに寂しいピアノを
君に弾かせることも無いのかもしれないね。